続・二宮忠八翁の書いたその日に丸亀市の1月の広報がポストの中に届いておりました。パラパラと、めくり進むと、広報の最終ページの『ふるさとウオッチング』のコーナーに【大空を飛ぶ夢が現実に 飛行機の出現】という見出しがあるではないですか!あまりの偶然に、ちょっとびっくり!で、続・二宮忠八の所で、まほろばさんがコメントくださったことへのお答えとして、広報の記事を一部載せさせていただきます。広報まるがめ1月号の担当者さん、私にとってとってもタイムリーな話題を書いて下さって、感謝しています。(お辞儀)
ここからは、広報誌の分を、抜粋して載せさせていただきます。『 ・・・・・・・ 前文略 ・・・・・・・ 一世紀余り前の丸亀で大空への夢を描いていた青年がいた。 彼の名は二宮忠八(ちゅうはち)。愛媛県八幡浜市出身で、 丸亀の歩兵第十二連隊看護兵だった。 明治二十二(1889)年十月、財田からの演習の帰途、 今の国道32号樅(もみ)の木峠での昼食時にカラスが残飯を求めて 滑走する姿を見て、飛行機の原理を研究し始め、 「カラス型模型飛行器」を作る。 動力として聴診器に使ったゴム管のねじれ回復力に注目して ゴムひもを使った。 飛行実験は丸亀練兵場(今の東中・大手前中・高校の敷地)で 明治二十四年四月に行われ、自力で滑走して十メートル飛んだ。 カラス型では方向転換ができなかったので、二年後に二重翼の 「玉虫型飛行器」を作り、下翼を上下させる事で可能となった。 資金や人材を調達するため、何度も軍の上層部に上申書を 提出したが却下された。 ・・・・・・・ 後文略 ・・・・・・・ 』その後、彼は京都に移住し、製薬会社に勤めながら資金を蓄え、人間の乗れる玉虫型の飛行機を作りオートバイエンジンを取り付けようとした矢先、ライト兄弟が初飛行に成功したそうです。顕彰碑に書いてあったのですが、忠八の軍当時の上司が、ライト兄弟の初飛行を知った後、彼に謝ったのだそうです。で、まほろばさん、広報を読んで、有人飛行というところに、 「人力による」とつけるべきだと、気がつきました。相変わらず、言葉足らずですみません。
コメント
国道32号線、樅の木峠手前に道の駅があって、そこに「飛行神社」という神社に、その飛行機の模型とか忠八翁の銅像もあります。 また、近年、資料館もできて、ときどき、そこをのぞくのですが、なんか・・気の毒な人というか、不運な人というか・・・だなと思っておりました。 運のいい人、悪い人って、いるものですね。
まほろばさん、私も運の悪い人だと思います。どんなに優秀な人でも、人との良い出会いが必要なんですね。レバタラは、言っても仕方ないのですが、良い理解者がいたら、 彼の人生も大いに違っていたでしょうね。